
写真1
写真2
写真1は、その時の旧函館酸素株式会社の酸素製造です。
当時の川北電気企業社製35馬力モーターと東京月島機械製3段式空気圧縮機、またモーターの背後に毎時10m3の酸素分離器が見えます。
この函館酸素は、昭和5年4月に当時の帝国酸素と合併の際に解散しています。
この当時、函館船渠(現在の函館どつく)では、溶接溶断技術の躍進に伴い、酸素の需要も次第に拡大していきました。
やがて昭和12年は蘆溝橋事件の年。
風雲怪しくなっていくなか、函館ドックでは酸素の需要増とその安定供給の観点から、専属工場の必要を感じ、昭和13年3月5日の発起人会を経て、
同29日に函館ドックが所有する浅野町の地に、資本金10万円の高熱工業株式会社を設立させました。
写真2は、昭和13年事務所の起工式の模様です。 ちょうど海側に向かって祭壇を設けているものと思われます。 右奥の建設中の建物は、現在の工場事務所、容器検査所の建物です。 また、奥の煙を出している煙突は当時の函館水電株式会社の火力発電所、現在の北電と思われます。
写真3も海側に向かった写真、
これを見ますと、既に事務所と容器検査所が完成し、酸素製造装置を設置する鉄筋コンクリートの工場が建設されつつあります。
株主総会資料によりますと、工場建設は物資や労働力が不足で工期が大幅に伸び、昭和13年12月にようやく竣工を迎えたようです。
写真3
写真4
写真4は、竣工した工場の外観です。 手前にガスホルダーと井戸の揚水ポンプ小屋、高架水槽が見えます。 この工場はその後増改築をしながら現在も使われ、その面影を2階の窓に見ることができます。 酸素製造販売許可が下りたのは昭和13年12月19日、許可番号は寅保第2266号、 製造工場の使用許可は昭和14年1月6日のことでした。
写真5
写真5が当時の酸素製造装置、当社として初めての装置です。
ドイツから直接輸入したハイランド社製の毎時30m3の酸素分離器と4段式空気圧縮機、
写真では見えませんが日立製75馬力モーターで駆動していました。
写真6は、ドイツのリンデ社製の酸素圧縮機、毎時30m3の処理能力のものでした。
写真7は、当時のハイランド社製の炭酸ガスアブソーバーです。
写真6
写真7
容器検査所として指定を受けたのは、昭和14年3月22日指定番号は、卯保第1015号北海道では容器耐圧検査所として第1号でした。 写真8。
この後日本は、昭和16年12月の真珠湾攻撃から戦時色を強めていき、
当社も最重要工業であった造船への酸素供給に重点が置かれるようになっていきました。
昭和20年7月は函館空襲があり、そして8月15日を迎えることになります。
幸いにも当社の製造設備は戦禍につつまれること無きを得ました。
戦後、業界は酸素工業会、連合会などを形成し、酸素販売公価の引き上げを図っていきます。
迎えた昭和21年の9月、当社は函館ドックより現有地と、当時あった電極棒の被覆工場、溶接工場それに従業員の厚生施設として浴場を購入し、
また社名を高熱工業株式会社から函館酸素株式会社に変更しました。
昭和25年の朝鮮戦争勃発を前後に、函館ドックの新造船の受注も好転化し、
また、市内の造船所も北洋漁業の拡大に伴い繁忙となっていきました。
当社は酸素需要の拡大にともない、昭和30年に長野県の岡谷酸素より1号機と同量の30m3能力の湘南製作所の酸素製造装置を導入し、
昭和31年1月より稼動しました。
写真9はその2号機です。
写真8
写真9
写真10
写真10は、第2工場の写真です。第1工場の南側に建設され、
2号機が収まるこの第2工場は、現在の製造技術部の事務室に当たります。
その直後の昭和31年、室蘭の日本製鋼所にあった官有の毎時60m3の湘南製作所製の酸素製造装置を購入し、
翌年3月より第3工場に設置、稼動に入りました。
写真11はその時の完成式の模様です。
第3工場は、現在のLGC容器置場に当たります。
第1工場から第2工場、第3工場ができ、それぞれの酸素製造装置が稼動していた当時が
写真12です。

写真11
写真12
写真13
写真13は昭和35年5月本社の1号機を移設、完成試運転の時の写真です。
昭和39年、東海道新幹線の開通、そして東京オリンピックが開催された頃、造船、北洋漁業とも活気づき、
函館本社では室蘭工場から酸素を移入して供給するようになりました。
翌40年、函館ドックに6万トン級の大型船台が完成するのと時を同じくして、函館ドックへの酸素供給の効率化を図る目的で、
函館ドック構内に酸素工場を建設、毎時100m3の酸素製造装置を当時の北海酸素より導入、設置しました。
写真14はその時の日立製4段式空気圧縮機です。
この時は、本社、室蘭、函館ドック構内の3工場体制で酸素供給していました。
昭和47年は札幌オリンピックの年でした。
函館もあの象徴的な門型クレーンが登場します。
函館ドックの30万トン修繕ドック、翌年30万トン建造ドックが完成しました。
6万トン船台の時と同様、この時も時を併せて函館ドック構内工場に毎時100m3の酸素製造装置をほくさん月寒工場より導入、
合計200m3の酸素供給体制を整えました。

写真14

写真15

写真16
写真15の中央部に2号機の日本製鋼所製の縦型空気圧縮機が見えます。
写真16には、1号機と2号機の分離器が仲良く並んでいるのが見えます。 右が1号機の熱交換器と分離器、手前に膨張機が見えます。 左が2号機の熱交換器と分離器です。
これらは旧日本理化工業製です。 函館ドック構内に2号機が稼動したのち、本社工場は装置の運転を停止します。
こののち本社に現在の液酸装置ができてから、1号機は廃却、2号機はナイジェリアへ移送されます。
ナイジェリアではまだ稼動しているかは定かではありません。
同じアフリカのリビアに、カダフィが登場し、アラブの石油カルテルOPECが勢いづいてきます。
中東のシリアとエジプトが同時にイスラエルを攻撃し、第4次中東戦争が勃発した時、
ウイーンでは世界経済を大きく巻き込むOPECと石油メジャーの会議が白熱していました。
この時OPECの頑固な減産移行により、世界は石油不足へと転換していきます。
オイルショックの始まりでした。
おりしも日本は景気浮揚策が功を奏し猛烈な需要期、引締め政策と石油不足が折り重なり、不況へと転落していきます。
造船界も、世界的な造船過剰にこれらが相俟って、長い造船不況へとなっていきました。
本社の毎時500m3酸窒素製造装置の建設が始まったのはそんな時でした。
函館工場、函館ドック構内工場及び室蘭工場の集約、集中生産体制による合理化、
液化窒素の新規需要に応じるため、昭和49年から50年にかけて日本酸素仙台工場より装置を導入、建設が始まりました。

写真18
写真18は、コールドボックスをすっぽり覆う建物の鉄骨骨組み建設の模様です。

写真19
写真19は、完成した本社工場です。 この時より液化酸素、液化窒素の製造販売が自社で可能となりました。 業界は昭和30年代よりすでに液化酸素など液ガスの時代となっていましたが、当社としては初めての液ガス製造装置です。
写真20
移送のためのローリーも液化酸素用、液化窒素用を初めて導入しました。 写真20は日化機製のタンクを搭載した液化窒素ローリーです。
函館にとって、時代の変遷を大きく感じる年は昭和63年、洞爺丸台風の苦痛から生まれた陸続きの夢の実現です。
青函トンネルが開業し、同時に青函連絡船が永い歴史に幕を閉じました。
この年、函館どつくの所有していた当社株を日本酸素(現:大陽日酸)に譲渡し、当社は日本酸素グループに参入します。 時代は平成となり、平成2年に札幌営業所を開設、平成3年本社に炭酸ガス充填所を新設、平成8年にアルゴンガス充填所を新設し、
多様化するガスニーズに、安定した供給体制を築いてきています。
写真21
写真22
写真23
写真21は、毎時500m3酸窒素製造装置のうち、
毎時2700m3の能力の石川島播磨重工製の6段式空気圧縮機です。
写真22は、毎時1350m3型3気筒レシプロ式膨張機です。
この装置は、国産第1号として、日本酸素(現:大陽日酸)が川崎工場に昭和29年に設置、稼動させ、 仙台工場を経て当社に、そして現在の装置へのリプレースまでじつに47年間その機能を発揮し続けていました。
これだけの長寿を全うするには、機器はすべてを製造部員の手によって、保守管理、修繕がされてきたほか、
写真23のとおり常にきれいに維持されきました。
しかし、変化の早い時代、すでにこのような高圧式の液酸装置は全国的にほぼ姿を消し、
当社の装置も長寿とともに老朽化し、後継装置への交換を否めなくなりました 。
時代の変革とともに、ガス用途が拡大をして、当社としても時代に遅れないように、最善で最良の製品を供給していく義務があります。
新鋭の装置で、お客様へのガス供給を万全なものにし、長年の信頼と期待に応えたいと、 平成13年に毎時600m3型酸窒素製造装置を日本酸素(現:大陽日酸)より新たに導入、リプレースを実施しました。
この装置は、「事業内容」の高圧ガス製造で詳しくご紹介しております。
この装置が稼動した後、毎時500m3の装置の一部は山梨へ移り、国産1号機の名誉と共に記念館に展示されております。
平成16年10月に、親会社の日本酸素は大陽東洋酸素と合併、「大陽日酸」となりました。
今後も函館酸素は、大陽日酸グループの一員として、そして地域経済の一員として、高圧ガス供給の面で地域に寄与していき、ともに発展したいと考えております。
昭和30年頃の当社工場の映像です。(画面クリック)![]() |